地名「御厨」の由来と大沼・藍沢
御殿場の古代の姿
伊勢神宮の荘園御殿場とその周辺の古風な呼び名「御厨(みくりや)」という言葉がある。「御厨」とは神社の荘園のことである。
「厨(くりや)」は「厨房(ちゅうぼう)」の「厨」であり元は台所であり、神への供え物を調理する建物を意味した。のちに食材を供給する土地、つまり神社の荘園を指すようになった。当地は伊勢神宮の荘園だった。
荘園は各地にあったので、御厨と呼ばれる地域はあちこちに存在する。当地は鎌倉時代から室町時代にかけて「大沼(おおぬま)鮎沢(あいざわ)の御厨(みくりや)」と呼ばれた(鮎沢は藍沢と書かれることもあった)。現在の御殿場市東部一帯を中心に小山町南部と裾野市北部を含んだ範囲が該当すると言われる。
大沼が広がっていた御殿場駅の東側から東山・深沢にかけて、大昔は広い湿原が広がっていた。東名高速御殿場インターチェンジ付近に「便船塚(びんせんづか)」という地名が残るが、かつては東西を船で移動していたと言われる。
傾斜地であれば水は流れてしまうが、東山・深沢付近は水がとどまりやすい地形である。
東西は箱根外輪山と富士山にはさまれている。
少し南へ行けば水は黄瀬川となって駿河湾へ流れ、北へ行けば鮎沢川が酒匂川につながり相模湾へ注ぐ分水嶺であるが、東山・深沢付近じたいは南北に平坦である。富士山噴火の噴出物が南北両端をふさげば水が溜まる地形である。
1978年(昭和53年)頃、御殿場駅の東側にケーヨーホームセンター(現ケーヨーD2)が開店したが、建設工事の際に地中から約4メートルの堆積した葦(あし)の層が発見され、基礎工事が難航した。
また、昭和40年代まで付近には水田が広がっていたが、御殿場地方で言う「ずるっ田」(足が深く沈む、ぬかるんだ水田)で田植に苦労した。湿地のため大きなカエル「ごろた」がたくさんおり、御殿場南高校が建てられた頃(1963年/昭和38年開校)まで周囲の道は「ごろた道」と呼ばれていた。
鎌倉・室町・南北朝時代の古文書に「藍沢原(あいざわはら)」という地名が見える。ほかに鮎沢・合沢・愛沢など、異なる表記をされることもあった。
小山町竹之下や沼津市大岡が藍沢であるとして書かれた古文書もあり、広範囲をさす地名だったと考えられる。語源としては、富士山・愛鷹山と箱根にはさまれた「間(あいだ)の沢」と理解すると、地形との整合性があると思われる。
▼藍沢(鮎沢)の範囲のイメージ
今に残る名称は藍沢神社(藍澤五卿神社)、鮎沢神社、鮎沢区、鮎沢川などあり、御殿場駅以北に集中している。そのため現在は、その付近が藍沢(鮎沢)であったという印象が強い。
しかし、1889年(明治22年)に9つの村が合併して富士岡村が誕生したとき、初期の村名候補は「藍沢村」だった。最終的に「富士岡村」となったが、御殿場市南部の富士岡地区を「藍沢」と呼ぶにふさわしいという感覚があったわけである。そういったことも、藍沢(鮎沢)が広範囲だったことを示していると思われる。
あるいは、ごく初期(平安時代以前?)は御殿場付近を指した地名が、やがて広範囲に適用されていった可能性も否定はできないが、文献上は長期にわたって広範囲をさしていたことがうかがえる。
近年「鮎沢」を「あゆざわ」と読む人が出てきたが「あいざわ」である。昔は表記が一定しないことが多く、音は「あいざわ」であるが一部の名称が「鮎沢」と表記され、漢字表記に引きずられて「あゆざわ」と読む人が出てきたわけである。
「御厨町」の時代伊勢神宮の荘園に由来する「御厨」であるが、町名として使われた時代がある。
1889年(明治22年)に11の村が合併し「御厨町」が誕生した。御殿場村、仁杉村、小倉野新田、深沢村、西田中村、東田中村、北久原村、二枚橋村、萩原村、東山新田、新橋村による合併であり、「御殿場町」とする案もあったが、御殿場村を中心とする合併のような印象を与え対等合併の原則に反するため、古くからの広域の呼称から「御厨町」とした。
しかし、同年に開通した東海道線の駅名(停車場名)は「御殿場」であり、知名度も考慮されたのだろう、1914年(大正3年)に「御殿場町」に改称された。
つまり、御厨町が25年間存在したのである。
1955年(昭和34年)には御殿場町、富士岡村、原里村、玉穂村、印野村の1町4村が合併し「御殿場市」となり、翌年・翌々年に高根村・小山町古沢区が加わり、現在の市域となった。
参考資料角川日本地名大辞典 22 静岡県 昭和57年10月8日 発行
御殿場の歴史と文化 御殿場市文化財審議会委員長 土屋俊光(『令和3年度 御殿場探訪』収録 御殿場市民交流センター 編集・発行)
【関連ワード】地名の由来,語源
(ページ公開:2022/03/30 text by KTK)